瀧澤 良仁 墨田区議会議員 一真良政。一つ一つ真心を持ってより良い政治を行います。

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瀧澤 良仁 たきざわよしひと
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東京都墨田区墨田5-33-4
瀧澤 良仁
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区政への抱負

今こそ、墨田新時代への幕開けです!
23区は平成12年4月から今までの都の内部団体から脱皮し基礎的自治体として生まれ変わりました。地方分権の推進を前提に墨田区は特色ある自治体として、その在り方を模索し無ければなりません。

今こそ、墨田新時代の幕開けです。
その為には思い切った行政改革を断行し景気回復に努力して参ります。21世紀は、政治、経済は勿論、社会も大きな変革期を迎えております。行政も議会も意識改革をし、区民に対する責任を全うしなければなりません。 たきざわは若い人々に住んで貰える特徴ある墨田区は、どうあるべきかに取り組んでいます。墨田区の住宅環境は世田谷や目黒のような住宅地域ではありません。
しかし、比較的物価が安いし、人々のきめ細い人情のふれあいがあります。多少粗雑なところもありますが、気持ちの良い人が沢山います。隣で何にがあっても、われ関せずでスマシテいる気風より下町の人情溢れる、隣近所を気にしてくれる多少お節介な小母さんが居ても、それはそれなりスバラシイとは思いませんか? 

そこで、墨田区の事を知らない人々に議会も行政も一体になって知って貰える努力をしなければなりません。

子供達の笑い声が聞こえる明るい街      

福祉を充実し人に優しい街      

商工業の強化育成を図り元気な街


そんな住み良い、墨田を作ろう !! 真に区民を考え、区民が満足出来る施策は何か、限られた財源の中で区民の満足度を高める政策の確立を計っていく事が議会人として大事な事だと思っています。

ご提案

区民が選択する時代です
 今は、区民が選択する時代です。区民が求めているのは、判断と決断する的確な情報です。

私は、基礎的自治体となる墨田区の経営戦略にシティズン サティスファクション(CITIZEN SATISFACTIONS)区民満足度の導入を提案しています。区民第一主義の立場に立って区民の行政に対する満足度を評価分析し、サービスの質の向上を目指す事です。客観的な判断基準のもとに区政運営を展開して行く事であり、オープン性とディスクロージャ(国・地方自治体の情報の公開)であります。

その事により、区の財政状況の公開や、収入収支の公開をはじめ公務員の出張に対する公開、又、建設物等に対する公開等で区民に対してオープンにする事です。スピード性とTATの確立は区の窓口に来られた人に対する情報提供・待ち時間・返答の適切さや問題処理の在り方等を改善させます。
その為、私は、区民が一番利用している窓口課は課・係長制から、その部・課の仕事は誰れでも出来る主査制に変える様、組織改正を強く主張しています。介護保険制度の確立、特別区制度改革に伴う地方分権・財政問題・荒廃した学校教育の正常化等、一つ一つ、安心して仕事が出来、暮らしていけるような温かい心の通う思いやりが持てる様な街づくりが必要です。今IT革命と言われていますが、取り扱う人の人間性が問題です。

新しい時代の行政のありかたを模索し研究実残しなければなりません。理論的には区の財源配分・組織の在り方・広報の在り方・諸施策の執行順位等内部検討基礎作りに必要であり、区民に対しては、基本的な対応姿勢を明確にして置かなければなりません。

鐘ケ淵という地名のいわれ

墨田五丁目は鐘ケ淵??
どこの地域でも住居名と違う俗称があります。
私が住んでいる墨田五丁目周辺は鐘ケ淵と言う名称で呼ばれていますが、不思議な事に一度も住居名になった事はありません。語源は何時の時代か判りませんが、隅田川を船で鐘を運搬中、船が転覆し鐘が川に沈んでしまいました。人々が集まり鐘を引き上げようとしましたが、どうしても引き上げる事が出来ず。これは龍神棟のお怒りに触れたものと諦めたそうです。 

以来、この付近を鐘ケ淵と言ったようです。鐘ケ淵は区内の近代産業の発祥の地で今は移転したが、鐘ケ淵の名を冠した企業は多数ありました。紡績・化学・ディーゼル・スチール・染色・染布・伸鉄等ですが、今名称が残っているのは、鐘淵中学校鐘ケ淵駅・鐘ケ淵町会・鐘ケ淵通り等です。
行政でも鐘ケ淵地域とか鐘ケ淵周辺とか行政用語で使われています。

祭り

『みたま』迎え
『みたま』送り

祭事は国の原点です。祭りは人間を活性化させます。洋の東西を問わず、どこの国でも、どこの街でも、どこの家でも祭事はあります。区内でも、神社の祭りに神輿が繰り出され若い人達が集い担いでいます。 

祭事の象徴的幻想的な表現が神輿の渡御でしょう。各種スポーツ以外グループ活動が少なくなっている今日それぞれの神輿愛好会がカラフルな独特な伴天を着て担いていますが、正にスポーツ感覚なのでしょう。
ここで、珍しい祭事を紹介しましょう。
墨田区堤通にある隅田川神社(水神社・船霊社)は隅田川の守り本尊ですが、明治維新までは神仏混淆の表れとして神社に付属しておかれた別当寺が今、隅田川七福神の一つ毘沙門天の多聞寺(墨田五丁目)でした。

隅田川神社は墨田区の発祥の地と言われております、隅田川と綾瀬川との合流地の須(洲)に位置し、水神の森とか、浮島と呼ばれた湿地の中にありました。一方多聞寺は、隅田でも比較的高台に位置していた関係から、神社の神輿庫が神仏一体の名残として、今もって残されています。神社と神輿庫が離れているので大祭の時だけ氏子が集い、行列をして神社に『みたま』を迎えに行き神輿に安置します。

翌日、神輿が町内を巡幸し、宮入りすると『みたま』を神社までお送りします。この行事が『みたま』迎え、『みたま』送りの行事で他の神社に例のない盛大な行事です。
大祭の折りには是非お出掛けください。次回は平成14年6月の第2土・日曜日の予定です。

知 覧(特攻基地)に想う

後世に伝えていかなければならないこと
6月11日、朝から雨が降り肌寒い日だった。
神社神輿が宮出し、一段落して子供達が集まり始め、子供らの神輿と山車が町内を巡幸する。例年の通り幼児は山車を引き、役員は、その面倒を見ながら午前中の行事を終え昼食となる。
Sさんは、その昼食を少し口にしただけで、気分が悪いから家に行ってくると、外へ出て、路上で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。Sさんの葬儀の日、戦友から花輪が届けられて故人が若い頃、航空隊にいた事を知った。更に、葬儀の挨拶でSさんが中学を卒業後、特攻隊を志願した事、特攻隊の一員として出撃の前の日に、終戦を迎えた事等を知った。

ふっと 私は、特攻隊基地があった九州の知覧へ行った時の事を思い出した。バスが知覧に近づくと、整備された道路があたかも滑走路のように見えた。特攻史料館では出撃した人の写真や遺品が陳列されていて、父母へ先立つ詫び状や、幼い弟や妹に父母を託す手紙、青春に後ろ髪を引かれる想いを、振り切って、愛する人を守るため我が身を捨てる心境等が、当時16~17才の著者とは思えない程、しっかりした文章で、自分の気持を率直に毛筆でしたためてあった。史料館を見て回るうち、私は、一番平和を望んでいたのは、この人達だったのでは無いかと感じた。霊となって祖国に帰り、靖国の庭で同期の桜と会おうと誓い合った若者たち!

ただ、靖国神社で親兄弟との再会を望んだだけの若者たち!あしたの出撃をまえに、小学校のピアノを借りてベートーベンの「月光の曲」を弾き「ありがとう」と、にっこり笑って立ち去った青年将校等々。想いをよせた人には蛍となって逢いにいく!何と文学的で情緒ある、心の優しさを感じさせる人々であったか。そこには欲もなく、まして、自分を神格化しようなどとは、どの文章にもない。

現在、学者文化人・政治家・知識層と言われる人達の多くは、戦争を知らない世代が大半を占めてきた。実態を知る事なく想像や仮想で、ただ口先だけで平和を唱えても、平和にはならない事を知るべきである。当時の軍部の軽率な判断と横暴には多くの批判や糾弾がなされる事は当然の事としても、著者が一枚の招集令状だけで、前線に送られ、その死者まで悪者扱いしている文化人と言われる人の批判は、当たらないと思う。

今日、若者達による凶悪な犯罪が続いています。当時の若者と現在を見比べた時、どこかが違う。皆さんと一緒に考えてみたいと思います。ご意見お寄せください。